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「説得力」を求めすぎることの「危険性」

昨日の「語る資格」と「やる資格」の記事と関連するお話になるのですが、今回は「説得力」といったものについて考えてみたいと思います。


他人に何か言ってみたいことがあったり、何かをやっていく上で他人を説得していく必要が出て来るときに大事になってくるのが「説得力」です。


自分の言動にきちんと責任を持ち、更に他人に協力してもらうためにも、


「それがどういう理由とデータに基づいて正しいのか?」



とか


「それをやることによって社会的にどういう意義があるのか?」



といった事を説明する必要は確かに出てきます。


一人でできることをしたいのであれば、妄想の世界に浸るだけでもある意味十分であるといえますし、あまり価値は無いと思います。今回の本筋とはズレますが、例えば「語りたい」や「やってみたい」の思いの先には必ず「他人」や「社会」が存在するはずですし、故に、他人と社会に関わっていくためにもどうしても、


「説得力」と言うのは避けては通れない重要なキーワードとなってきます。


「説得力」を増す方法は、色々とあると思います。先ほど述べたようにデータと根拠を示して見たり、実績を背中で見せてみたり、あとは「おもしろい!」と相手に思わせることも「説得力」に繋がると思います。しかし、あまりにも「説得力」に執着し過ぎると、肝心な物事を進めていくエネルギー源である、


「語りたい」「やってみたい」という気持ちが無くなってきてしまう


ことがあるのです。


「説得力」を求めていくのにも二つの動機があります。一つは、先ほどから述べているように


「他人」や「社会」と関わっていく事を目的とした、前向きな動機


もう一つにある動機とは、


「自信」の持てない自分の言動の「正しさ」を裏付けてくれるための証明を手に入れることを目的とした、後ろ向きな動機


です。


一定のデータや根拠を得ても尚、「説得力」を求め続けるのは、言ってしまうと、


「自分の言動に自信がないから」


でもあると言えます。


おそらく、そう言った人も、最初は「語りたい」とか「やってみたい」といった気持ちから生まれた自分の言動に、「自信」はあったのだと思います。しかし、


「語る資格」や「やる資格」などと言った後ろ向きな「説得力」を求めていくうちに、「自信」を自ら手放していってしまった


可能性もあるのではないかと僕は考えているのです。


またまたなぜこのようなことを書くのかといえば、少しの自戒が含まれているからです。


僕には、昔から「説得力が欲しい!」とか「認められたい!」とか思う欲求が強く存在しています。そういった欲求を抱くこと自体は、今のところ良いとも悪いとも判断しないようにしています。しかし、最近、というか去年から今年にかけて、


あまりにも「説得力」を求めすぎてしまっている自分


といったものに気づいたのです。


具体的には、学問に対する向き合い方がそうでした。僕は、現在ICU(国際基督教大学)に通っている二年生の大学生なのですが、二年生の一年間では、主に


「実証」の科学


に自分なりと向き合ってきました。数学や統計学、そして実験法などを通じて科学的な「説得力」とは何かを知り、その能力を自分に身につけたいという一心から、「間違っているのかもしれない」とも思いながら、自分なりに向き合い、勉強してきました。しかし、最近正直に言えば、勉強に対する「やる気が出ない」自分というものを感じていて、課題を無難に終わらせたり、あとは授業をサボったり朝起きるのが遅くなったりしている自分にも気付きました。それに対して、ずっと「どうしてなんだろう?」と思い、「ゴールへの臨場感が足りないのかな?」などと、コーチング的に考えたりしていたのですが、その理由はおそらく、


「学問」そのものを楽しんでいないから


だと分かりました。



数学 カラー



例えば、どちらかといえば僕は「文系」出身でありながら、自然科学的な「証明」というものと向き合うために、代数学(algebra)、解析学(analysis)、幾何学(topology)といった数学の基礎となる授業を一年間で取ってきたのですが、僕は心の中でそれらをあくまでも考えるため、説得の手段としての「ツール」として捉えていて、


「数学」そのものは全然楽しんでいない上に、「これ役に立つのか?」とかいうつまらない発想をしている自分


という存在に気付かざるを得ませんでした。


それに、誤解を恐れずに言えば、


「数理科学」そのものが「説得力」があるわけでもない


といった事にも気付き始めました。例えば、数学においては必ず最初に「定義」といういわば「約束事」を設定し、それが真である(正しい)事を前提とした上で議論を進めていきます。そのため、「定義」を疑い、別の「定義」を設定することもできますし(実際にそういった事もやっています)、その最初に設定した「約束事」が適切でなければ、その後の議論も適切にはならないのです。(有名な例としては、ユークリッド幾何学における「公理」も、あくまでも「証明の必要のない自明な法則」と定義しており、「公理」そのものが正しいかどうかはそれだけでは分からないというものです。)


自分がまだこういった事を「語る資格」があるのかとも感じますし、上に述べた「定義」の話も正直正しいのかどうか自分でも怪しい所があるのですが、それでも僕は自分なりに数学をやっていく中で、ある意味、


「この『定義』と言うのは、『約束事』という観点から見て、例えば社会科学における『法律(ルール)』とかとあまり大差は無い」


と、感じた所があり、故に「『数理科学』そのものが『説得力』があるわけでもない」と述べたのです。では、どの学問が最も「説得力」があるのかといえば、おそらく


「そんな『学問』は存在しない」



のだと思います。これは個人の「感覚」でしかないのですが、この「感覚」を得られた事はICUにおけるリベラルアーツ教育の一種の恩恵なのだとうなと感じています。(もちろん、ここでは「数理科学」そのものを否定しているわけでは全くありませんし、「数理科学」も他の学問同様、その存在意義は特定の尺度によって評価すべきではないという事です。)


話しを元に戻すと、そう言ったことから僕は、


「『説得力』を求めすぎてしまうのは、『信仰』と変わらないし、そういう姿勢で生きていくのは危険だな」


と、考えたのです。


では、学問に限らず、どういう基準で突き詰めていく物事を選択するのかと言えば、それはやはり


「語りたい」や「やってみたい」とかいった素直な自分のを気持ちを、認め、信じてあげること


から来るべきなのかなと感じているのです。これに関しては「説得力」をあまり求めるべきではないのかもしれません。敢えて付け加えるとすれば、「『have to』よりも『want to』の方が生産性が700倍高い」といったハーバードビジネススクールの研究結果などがありますが、何だかそれも「だから何?」といった感じですし、そもそもそういうデータが「語りたい」や「やってみたい」の気持ちに影響を与えているわけではないのだと思います。


以上です。今回の記事を求めると、


「説得力」は大事。だけど「説得力」を求めすぎるのは危険!



という事です。


それでは!


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Author:生駒 翼
ICU(国際基督教大学)に通っている都内の学生です。
人の悩み、思想、感性などについて、日々生駒が考え、向き合っていることを、書いていくブログです。
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