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「殺意」に耳を傾ける

よく、

自分の「価値観」も「正しさ」も「感性」も「目標」も、何もかも分からなくなってしまい、戸惑うだけの毎日を過ごしてしまい、でもなんとなくそれが嫌だ。でも何をもって「嫌だ」と言っているのかもよく分からない……


みたいなグチャグチャな状態に陥る事に見覚えがある人はいないでしょうか?


僕はこのような状態のことを「身体がどこにあるのか分からない」と称することが多いのですが、こういう時は、決まって何かと肯定できるものが少なくなってしまいます。


自分の「want to」の感覚も信じられなくなりますし、他人の気持ちを推測することもできなくなります。


なぜこういった「無感覚」な状態に陥るのかといえば、言ってしまうと「『自分』を認めていない」状態が続いてしまったからです。


では、こういう状態に何をすべきかといえば、一つの方法として僕は、


「殺意」に耳を傾ける


といったやり方を推奨します。


少しおどろおどろしい言い方になってしまいましたが、どういうことかと言うと、まず、コーチング的な観点から言えば、人生の中では「want to」のことだけをやるべきです。しかし、こういう風に「無感覚」で「身体がどこにあるのか分からない」状態に陥っている人からしてみれば、


「want to」なんて分からない



というのが本音だと思います。僕自身、しょっちゅうこういう状態に陥っていて、その度に「want to」なんて分からないと思っていましたし、それが悔しくて仕方がなかったのです。(そういった経験を思い出しながらブログを書いたりしています。)


さて、「want to」が分からないのであれば、どうするべきか?ここで「殺意」がキーワードとなってきます。


「無感覚」状態では、肯定できるものが少なくなります。しかし、「肯定できるものが少ない」と言う事は、「否定したいものが多い」とも解釈できます。そして何よりも、静かな「殺意」が湧いてきているはずです。ここで大事なのが、


「殺意」を通じて己の「want to」を知る



ということです。


もちろん、「人を殺してもいい」などと言っているわけではありません。しかし、「殺意」だってあなたの「want to」の一部であるはずなのです。「殺意」を感じると言う事は、それだけ何かしら「許せない」と感じているものがあり、それこそがあなたの「want to」の一つであり、「ゴール」に繋がるサインとなります。


僕は、自分の中の「殺意」が生じたのであれば、それを一旦自分で認め、自分の「本音」や「want to」を捉え直すような事をよく行います。


もし、「無感覚」で「身体がどこにあるのか分からない」といった感覚に悩まされているのであれば、こういった方法を試してみるのはいかがでしょうか?


きっとその先に自分の「want to」が見えるはずです。



今回はこんなところです。


ではまた。
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「説得力」を求めすぎることの「危険性」

昨日の「語る資格」と「やる資格」の記事と関連するお話になるのですが、今回は「説得力」といったものについて考えてみたいと思います。


他人に何か言ってみたいことがあったり、何かをやっていく上で他人を説得していく必要が出て来るときに大事になってくるのが「説得力」です。


自分の言動にきちんと責任を持ち、更に他人に協力してもらうためにも、


「それがどういう理由とデータに基づいて正しいのか?」



とか


「それをやることによって社会的にどういう意義があるのか?」



といった事を説明する必要は確かに出てきます。


一人でできることをしたいのであれば、妄想の世界に浸るだけでもある意味十分であるといえますし、あまり価値は無いと思います。今回の本筋とはズレますが、例えば「語りたい」や「やってみたい」の思いの先には必ず「他人」や「社会」が存在するはずですし、故に、他人と社会に関わっていくためにもどうしても、


「説得力」と言うのは避けては通れない重要なキーワードとなってきます。


「説得力」を増す方法は、色々とあると思います。先ほど述べたようにデータと根拠を示して見たり、実績を背中で見せてみたり、あとは「おもしろい!」と相手に思わせることも「説得力」に繋がると思います。しかし、あまりにも「説得力」に執着し過ぎると、肝心な物事を進めていくエネルギー源である、


「語りたい」「やってみたい」という気持ちが無くなってきてしまう


ことがあるのです。


「説得力」を求めていくのにも二つの動機があります。一つは、先ほどから述べているように


「他人」や「社会」と関わっていく事を目的とした、前向きな動機


もう一つにある動機とは、


「自信」の持てない自分の言動の「正しさ」を裏付けてくれるための証明を手に入れることを目的とした、後ろ向きな動機


です。


一定のデータや根拠を得ても尚、「説得力」を求め続けるのは、言ってしまうと、


「自分の言動に自信がないから」


でもあると言えます。


おそらく、そう言った人も、最初は「語りたい」とか「やってみたい」といった気持ちから生まれた自分の言動に、「自信」はあったのだと思います。しかし、


「語る資格」や「やる資格」などと言った後ろ向きな「説得力」を求めていくうちに、「自信」を自ら手放していってしまった


可能性もあるのではないかと僕は考えているのです。


またまたなぜこのようなことを書くのかといえば、少しの自戒が含まれているからです。


僕には、昔から「説得力が欲しい!」とか「認められたい!」とか思う欲求が強く存在しています。そういった欲求を抱くこと自体は、今のところ良いとも悪いとも判断しないようにしています。しかし、最近、というか去年から今年にかけて、


あまりにも「説得力」を求めすぎてしまっている自分


といったものに気づいたのです。


具体的には、学問に対する向き合い方がそうでした。僕は、現在ICU(国際基督教大学)に通っている二年生の大学生なのですが、二年生の一年間では、主に


「実証」の科学


に自分なりと向き合ってきました。数学や統計学、そして実験法などを通じて科学的な「説得力」とは何かを知り、その能力を自分に身につけたいという一心から、「間違っているのかもしれない」とも思いながら、自分なりに向き合い、勉強してきました。しかし、最近正直に言えば、勉強に対する「やる気が出ない」自分というものを感じていて、課題を無難に終わらせたり、あとは授業をサボったり朝起きるのが遅くなったりしている自分にも気付きました。それに対して、ずっと「どうしてなんだろう?」と思い、「ゴールへの臨場感が足りないのかな?」などと、コーチング的に考えたりしていたのですが、その理由はおそらく、


「学問」そのものを楽しんでいないから


だと分かりました。



数学 カラー



例えば、どちらかといえば僕は「文系」出身でありながら、自然科学的な「証明」というものと向き合うために、代数学(algebra)、解析学(analysis)、幾何学(topology)といった数学の基礎となる授業を一年間で取ってきたのですが、僕は心の中でそれらをあくまでも考えるため、説得の手段としての「ツール」として捉えていて、


「数学」そのものは全然楽しんでいない上に、「これ役に立つのか?」とかいうつまらない発想をしている自分


という存在に気付かざるを得ませんでした。


それに、誤解を恐れずに言えば、


「数理科学」そのものが「説得力」があるわけでもない


といった事にも気付き始めました。例えば、数学においては必ず最初に「定義」といういわば「約束事」を設定し、それが真である(正しい)事を前提とした上で議論を進めていきます。そのため、「定義」を疑い、別の「定義」を設定することもできますし(実際にそういった事もやっています)、その最初に設定した「約束事」が適切でなければ、その後の議論も適切にはならないのです。(有名な例としては、ユークリッド幾何学における「公理」も、あくまでも「証明の必要のない自明な法則」と定義しており、「公理」そのものが正しいかどうかはそれだけでは分からないというものです。)


自分がまだこういった事を「語る資格」があるのかとも感じますし、上に述べた「定義」の話も正直正しいのかどうか自分でも怪しい所があるのですが、それでも僕は自分なりに数学をやっていく中で、ある意味、


「この『定義』と言うのは、『約束事』という観点から見て、例えば社会科学における『法律(ルール)』とかとあまり大差は無い」


と、感じた所があり、故に「『数理科学』そのものが『説得力』があるわけでもない」と述べたのです。では、どの学問が最も「説得力」があるのかといえば、おそらく


「そんな『学問』は存在しない」



のだと思います。これは個人の「感覚」でしかないのですが、この「感覚」を得られた事はICUにおけるリベラルアーツ教育の一種の恩恵なのだとうなと感じています。(もちろん、ここでは「数理科学」そのものを否定しているわけでは全くありませんし、「数理科学」も他の学問同様、その存在意義は特定の尺度によって評価すべきではないという事です。)


話しを元に戻すと、そう言ったことから僕は、


「『説得力』を求めすぎてしまうのは、『信仰』と変わらないし、そういう姿勢で生きていくのは危険だな」


と、考えたのです。


では、学問に限らず、どういう基準で突き詰めていく物事を選択するのかと言えば、それはやはり


「語りたい」や「やってみたい」とかいった素直な自分のを気持ちを、認め、信じてあげること


から来るべきなのかなと感じているのです。これに関しては「説得力」をあまり求めるべきではないのかもしれません。敢えて付け加えるとすれば、「『have to』よりも『want to』の方が生産性が700倍高い」といったハーバードビジネススクールの研究結果などがありますが、何だかそれも「だから何?」といった感じですし、そもそもそういうデータが「語りたい」や「やってみたい」の気持ちに影響を与えているわけではないのだと思います。


以上です。今回の記事を求めると、


「説得力」は大事。だけど「説得力」を求めすぎるのは危険!



という事です。


それでは!


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「語る資格」や「やる資格」を求める前に

ピエト


私たちは、時々何かを思いついたり、やろうとした時に、


「自分に『語る資格』があるのか?」


とか


「自分に『やる資格』があるのか?」


といった事を、考え、自問自答を始めることがあります。


アイディアを思いついた瞬間は「いいね!」と感じていた事も、考えれば考えるほど、自分の至らなさや環境の不備などが次々と目に入るようになり、


「やっぱりこれを言う(やる)のはよそう」


と、知らぬ間に消極的な姿勢になってしまうこともしばしばあります。


ここで一つ、僕は強く問いかけたいと思っていることがあります。それは、














「あなたの中に生まれた『語りたい』や『やってみたい』の気持ちは一体どこにいったんだ?」



という事です。


消極的な姿勢になっていく前提には、必ず「語りたい」とか「やってみたい」といった気持ちが強く存在しているはずです。そうでなければ、「語る資格」だの「やる資格」だのと言った事をそもそも考え、悩み始めるわけがないからです。


確かに、己の「無知」であったり「勉強不足」を見つめ直すというのは、良い事ではありますし、「語る」のにも必要な最低条件といったものも存在します。(例えば、キリスト教について語りたければやっぱり『新約聖書』などを、自分なりに読んでみる必要は出てくるでしょう。)しかし、例え「語る資格」や「やる資格」というものが存在するというのが事実であるのだとしても、「語りたい」や「やってみたい」の気持ちが無くなることはないんですよ。先ほど、「どこにいったんだ?」と言う質問をしましたが、その答えはおそらく


「どこにもいっていない」


です。どこかにも行かず、ただただ「自分」の中でくすぶり続けているものだと思うのです。


今回、何が言いたいのかと言えば、それは相も変わらずに己の中でくすぶり続けるその「語りたい」とか「やってみたい」といった気持ちを、自分で認めるのが大切ですし、


「認めるべき」



なのだと言うことです。これに対して、


「そんなこと言ったらお前、みんながみんな好き放題言って、無責任な事を言い出したりするじゃないか!!!」



といった旨の反論も聞こえてきそうなのですが、それに対して、僕はハッキリと、


「それは違う。寧ろ『逆』だ」


と答えたいと思います。


多くの無責任な言動をしたり、意味もなく他人を批難せざるを得ない人というのは、「言いたいこと(語りたい)」事を言っていたり、「やりたいこと」をやっている人なのではなく、寧ろ、


「自分の中の『語りたい』や『やってみたい』の気持ちを自分で素直に認めてあげていない人」



であったりするのです。


だってよく考えてみてくださいよ?自分の『語りたい』や『やってみたい』の気持ちを自分で認めてあげていないのに、それを自分以外の誰かが好き勝手にやってしまっている様子を見るのは、


『正・直・ム・カ・つ・き・ま・せ・ん・か?』


少なくとも僕は同じ状況になればムカつきますし、文句を言って他人の揚げ足を引っ張りたくなる人の気持ちもよく分かるんです。


逆に言えば、自分の中の『語りたい』や『やってみたい』と言う気持ちを素直に肯定できる人は、


他人の「気持ち」も素直に肯定できるようになる



とも言えます。「認めよう」ではなく、「認めるべき」と言ったのにはこういった理由があるからなんです。自分の為だけではなく、他人の為、ひいては社会のためにも自分の中の『語りたい』や『やってみたい』と言う気持ちは素直に「認めるべき」なんですよ。


そうやって産まれるのが「寛容」であり、それができる人が「優しい人」になれるのではないかなと僕は思っています。
(正直「俺が『語る資格』あんのかよ?」とか思いますが、だからこそ言ってやるぜい!笑)


まあそもそも何でこんな話をしだしたのかといえば、僕自身が「最近これができていないようなぁ」と感じていたからです。


僕はよく、鏡をじぃぃっっっっと見つめ、自分の表情や背筋、目の輝きなどをチェックしてみたり、太極拳を通じて己の身体の「自然・不自然さ」を確認したりするのですが、なんというかそこで表れる最近の「自分」というのが何だか


「気持ち悪い」


と感じてしまったんですよ。他人と喋るのにも何だか口元を隠すような感じですし、気付いたらじぃぃっっっっと他人の事を睨みつけるような目線をしていることが分かりました。イメージするにあれです。男の子がよく好きな女の子の前で声を掛けるでも何をするわけでもなく、ただ単にその子の周りを用も無いのにウロウロとうろついてしまうような、そんな感じの「気持ち悪さ」です(笑)


なぜそうなってしまっているのかと言えば、「語りたい」や「やってみたい」の気持ちを素直に認めず、ただビクビクしていたからですし、その結果、前述の通り、他人の話しを聞くときも、「何だか真剣に聞くことができていない」と感じ、それがとても自分で「勿体無い」と感じたし、「嫌だ」と強く感じたのです。


当然のことながらこんなブログを書いたり動画を公開したりしている僕だってこういう風に「語る資格」や「やる資格」を求めて彷徨い始めてしまう時もあります。そのこと自体、現状の自分に「不満」や「至らなさ」を実際に少なからず感じていることなので、コーチング的には良い側面もあるのですが、それでもやはり、自分の中の「語りたい」や「やってみたい」、の気持ちをもっともっと爆発させるべきですし、「みんなももっとできるはずなんだ!」と強く感じ、だからこそ今回はこの記事を書きました。


以上です!この記事を読んで下さった方が自分の中の「語りたい」「やってみたい」の気持ちを見つめ直すキッカケになれたのであれば、嬉しいです。


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プロフィール

生駒 翼

Author:生駒 翼
ICU(国際基督教大学)に通っている都内の学生です。
人の悩み、思想、感性などについて、日々生駒が考え、向き合っていることを、書いていくブログです。
Youtubeに動画も投稿しています。
https://t.co/MqQdAtgvH2
連絡先……tsubasaikoma0☆gmail.com
(☆を@に変えてください。スパム対策です)
Twitter……@Tomo_Haneda02

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